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執筆者の写真三香美 晋道

無常と有常

 常無しと書いて無常という言葉と、常有と書いて有常という言葉があります。反対のことを言っている言葉に見えますが、どちらも同じような意味になります。本来は有常ということが自然世界の有り様を示した言葉であったようです。常に変わりゆくことが自然世界の理として有るということが有常という言葉で、その有常ということを分かり易く伝えるために、釈尊は無常という言葉で人々に話をされたとお経の中に書かれています。下記に二つの無常の視点から書いた文章と、有常の視点から書いた文章とどちらが受け取り易いでしょうか?


【無常】この世の中に常に変わらずに有るものはひとつも無く、それは人が整備して運用している電波の回線も同じことではないでしょうか。


【有常】この世の中の全てのものは常に変わってゆく性質が有り、それは人が整備して運用している電波の回線も同じことではないでしょうか。


 個人的にも無常視点から書いた文章のほうが分かり易い気がします。しかしながら、自然世界の理として有常ということがあり、それを分かり易く伝えるために無常ということを釈尊がおっしゃられたということを、こころの隅にとどめておいてください。無常という言葉だけでは見えてこない世界があるのだと思います。

 前述した二つの文章については、先日起きました電波障害のことを書いたわけですが、人も地球上の全ての命と同じで、決して自然世界から離れた存在では無く、またそこから離れて存在することもあり得ないことでしょう。資本主義経済の中で暮らすうちに、人と人が暮らす営みの中で、お金の対価として、サービスが提供されて当たり前という考えに捉われてしまい、私も含め多くの人が真の体験としてそのことに気づけずにいるということがあるのではないでしょうか。

 真の体験の具体的な内容は、人も人が作りだしたと思われるものも、有常の存在であるということに気づくか気づかないかということである気がします。


 例の如く最後に、この記事を読まれた方で万が一でも心に響いて、なるほど素晴らしいと思われた方がいたとしても、一旦立ち止まって考え、ひとつの解釈に捉われず、日々の生活の体験を通して修行していってください。

 最後までお読みいただきありがとうございました。 



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