六月も中頃を過ぎ随分熱い日も増えてまいりました。今回は大分時がたちましたが、涅槃会にちなんで話を書きたいと思います。
2月3月は宗派にもよりますが、お釈迦さんの亡くなられた命日3月15日(旧暦の2月15日)にちなみ涅槃会のお参りが各寺にて行われる時期です。その際に金沢のほうでは色鮮やかな涅槃団子が撒かれます。持ち帰った団子は乾燥させて御守にする場合や、焼いたりバターで炒めたり、ご飯と一緒に炊いたり、お味噌汁に入れたりして各家庭の好みの方法で食べられているようです。
崇禅寺では涅槃会の時に遺経というお経を必ずお読みします。遺経とはお釈迦様が亡くなる直前にお弟子さんたちにお話しされたものです。その最後の方の一文に題にあります、敗壊不安の相という言葉が出てきます。
「汝等比丘、常に一心に出動を勤求すべし。一切世間の動不動の法は、皆是れ敗壊不安の相なり。汝等しばらく止みね、復た語いうこと得ること勿れ。時将に過ぎなんと欲す、我滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり。」
この一文にでてくる「敗壊不安の相」とは何かが壊れたり、心が不安になることのあらわれという意味であるようです。
つまり、目の前のことが変わって行くことへの不安から、こうした方が良いとかこうしなければならないといった意見がでてくる、そういった捉われの枠から出るよう勤めるようにという意味でなないかと思われます。
例えば今の流行り病の時節、周りに自分や世間が良いと思うことをしていない人がいると責めたり、ののしったりすることが多いですが、そもそもこの地球に生まれたということは、人が想像する以上の事が起こるし、多くの人や生き物が周りにいて、その人や生き物は自分の思う様に動かせないものであるし、そういった地球のどうしようもない理から来ることに、こうした方がいいんじゃないかとか、こうあるべきだとか考えて、それに当てはまらない事に出会った時に、腹をたてたり不安になっていても、それは解決策のない問題を永遠に解き続けていくことになる。だから、敗壊不安の相にかられて、人の考え方や世の中の状況ひとつで変わっていくような法、ルールに捉われていくのではなく、地球、この自然世界の方ルールを根拠にさまざまな出来事と向き合って行くよう、勤めなさい。そういうことを伝えるために、先の言葉があったのではないかと思います。
人が皆で生きていくうえでの智慧として、人に何かを施す布施の行、自分の為ではなく人のために動く利行、憎しみや自分の不安を晴らすためではなく、相手のことを思いやって言葉をかける、愛語の行、そして自分だけが暮らしやすい世界を目指すのではなく、皆が暮らしやすい世界を目指して行くという同事の行、と四つのことが伝えられてきました。この釈尊より伝わる、最も分かり易く、最も難しい四つ行を少しづつでも行じていくことが、人がこの自然世界で沢山の人と生きていくなかで、どんな状況であっても、人の不安を安心に変えていける方法なんだろうと思います。
長々と読みにくい文章ですが、まあ何より実践に勝ることはないので、頭で考えるより、こんなことで何かが変わるのかと思う様な事も、実践して自分の体験を通して、その結果を知るということでありますので、またお互いに日常の生活のなかで色々と試しながら行を修めていきましょう。
ちなみに、後半の部分の釈尊の言葉ですが、弟子達に、自分が時至って死にゆくという、自然世界の理を、もう何も言わずに受け入れて行くよう精進せよ、これが私がお前たちに最後に伝える教えであるということでなないかと思います。
また、間違った解釈で言葉を受け取ってしまうこともあるので、自分が読み取ったことを実践してみて、その都度立ち止まり、その行いが釈尊の残された、自然世界の法に沿ったものであったか、自分の解釈が間違いでなかったか、実践の結果と照らし合わせていくことが大切であるということも戒めとして、一文添えて終わります。
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